美術評論家・伊藤誠氏の辞

戦前の神戸洋画壇で活躍された鈴木清一さんの回顧展が、この度ご遺族の手により、ゆかりの地・神戸で開かれることになった。ちょうど21世紀へ足を踏み入れた新しい区切りの年だけに、これは非常に有意義なことと思われる。

 いうまでもなく20世紀前半の日本は、19世紀末からの動きを引き継ぎ、先進欧米諸国に対しあらゆる分野で「追い着き追い越せ」と、近代化めざしてガムシャラに突き進んできたのであるが、途中で舵を取り違え、却って国を危うくする失敗を犯してしまった。考えてみれば、ある意味では鈴木さんも、その国を挙げての過失による、気の毒な犠牲者のお一人であるといえる。


 鈴木さんは昭和54年(1979年)84歳で亡くなっておられる。従って、戦前のみならず戦後の日本美術界で(当然神戸洋画壇でも)非常に活躍された小磯良平・田村孝之介両画伯らと、ほぼ同時期に中央画壇へデビューされたのち(厳密には鈴木さんの方が少し先輩である)神戸画壇でもご両所らと(いい意味での)競争仲間として常に腕を競い合ってこられたとお聞きしているが、なぜか鈴木さんのみは戦後の美術界から、独りヒッソリと姿を隠してしまわれるという結果になった。

 実は鈴木さんは、戦争が激しくなってきた昭和17年、県内に幾つかあった美術団体・グループが一本化して兵庫県新美術聯盟なる組織を発足させた際、それまでの実績と人望により推されて委員長に就任なさった。ところが、ほぼ3年ののち終戦で世情が180度転換すると、あらゆる戦時中の組織が糾弾され始め、県下美術界の代表として今度は心ない人々の "美術戦犯" 呼ばわりの矢面に立たされたのである(東京では藤田嗣治画伯らの例がある)。そして遂に何ら弁明されず、潔く自らその責任を取られた。つまり以降は中央画壇・神戸画壇を問わず一切から離脱。もちろん、戦前の帝展・文展における画家としての実績をも惜し気なく放棄された、という訳である。(ただし陰で独り黙々と絵筆だけは離されなかった由だ。)


 新しい世紀の夜明けを見た現在、第2次大戦中および戦後の混乱期に埋もれていった芸術家たちへ改めて光を当て、その仕事に伴う名誉を回復することは(余りにも遅きに失した感はあるにせよ)、それらの人々と20世紀のある時期を共に生き、かつ今生き残っている者の何よりもの責務であろう。今回の作品展で、洋画家・鈴木清一さんの真価を大勢の方々に篤と見届けて頂きたい、と切にお願いする次第である。

 美術評論家  伊藤 誠

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