メディアが取り上げた鈴木清一


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2001年11月25日(日)放映
 サンテレビ放送『スペース2001』
 制作著作:サンテレビジョン

数々の入選作を生み出していた戦前、戦争を機に画壇からいっさい身を引いた清一の生き様、一生涯にわたって清一と家族を支えた妻・八千代の存在などが紹介されました。
清一と交流のあった人々の話や、生まれ故郷である茨城県・水戸を訪ねるなど、幅広い取材によって清一の人柄を伺い知ることのできる番組でした。


2001年10月30日(火)放映
 サンテレビ放送『ニュースEYEランド』
 制作著作:サンテレビジョン


2001年10月12日(金)放映
 サンテレビ放送『ニュースEYEランド』
 制作著作:サンテレビジョン


2001年10月10日(水) 毎日新聞
 取材・文/藤田幸司氏(毎日新聞社) 記事本文を読む


2001年9月29日(土) 神戸新聞夕刊第7面「感性都市21」
 取材・文/山本忠勝氏(神戸新聞社) 記事本文を読む


●2001年10月12日(金)午後9時30分 
 サンテレビ放送『ニュースEYEランド』 
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11日には、地元テレビ局・サンテレビによる取材も行なわれ、12日の『ニュースEYEランド』内で鈴木清一の生涯と回顧展の様子が放映されました。
取材に当っていたスタッフも、初めて見る鈴木の作品に感動し「素晴らしい作品です。すごい展覧会です」と途中経過を本社に報告する場面もあったようです。

▲取材を受けている実行委員会代表、鈴木耕三。
 放映では判らない番組制作の様子がうかがえる1枚です。



『ニュースEYEランド』放映時の映像です。
使用をご快諾くださったサンTV番組制作の方々に御礼申し上げます。

以下使用画像すべて
制作著作:サンテレビジョン(ニュースEYEランド放映時のもの)

鈴木清一の顔写真 若かりし日の清一



番組の女性キャスター 
戦争で画壇を去った“悲運の画家”として紹介されました



回顧展開期中の会場(こうべまちづくり会館)の様子です

展示会場の作品群

訪れた人々(制作著作:サンテレビジョン)

 神戸新聞の掲載記事




 2001.9.29 神戸新聞の記事本文

画壇去り見えた 本質照らす光

美術界のホープ、敗戦で暗転

取材・文:山本忠勝氏(神戸新聞社)


見出し

●悲しげな目
●順風の出足
●過酷な転落
●自己の発見
●ラブレター

“忘却の画家”鈴木清一(1895─1979)回顧展

 作品が歴史に残るというのは、無論その作家に力があってのことでしょう。しかしいくら大事な仕事をしていても、そのときの情報の流れの偏りで存在が忘れられてしまう、そういう作家も決して少なくないことが、遅ればせながら分かってきました。東京に情報が集中する近・現代には、とりわけその傾向がみられます。神戸で22年前に死んだ画家、鈴木清一もそんな忘れられたひとりです。黒田清輝に学んで外光派ふうの作家としてスタートしますが、やがて自己の世界へ一歩一歩沈潜していくその堅実なプロセスは、地味ではありますが深く心を打つものです。10月11日から画家の子息の手で初めての没後展が開かれます。神戸・元町のまちづくり会館で始まる「郷土の洋画家・鈴木清一回顧展」です。

●悲しげな目 ●順風の出足 ●過酷な転落 ●自己の発見 ●ラブレター


悲しげな目

 画家の子息、鈴木耕三さんが大きなカバンに資料を詰めて社へ来られました。耕三さんは並外れて実直な感じの方です。背筋をピッと伸ばしてほとんど不動で話されるので、うかがう方も緊張しました。会社を定年まで勤め上げられてようやく時間ができたので、念願の父の回顧展に取り組まれたということです。心の底にずっと抱かれてきた計画でした。
 まず画家の自画像(1928年)を写真で見せていただきました。33歳のころの作品です。冬なのでしょう、帽子と厚手のコートに包まれ、もの思わしげなヒゲの顔に独特の目が光っています。理想を遠くに見つめているようでもあり、すでに断念しているようでもあります。強い意志が伝わってくる一方で、あまりの優しさのために自己を無理には押し通しきれない、そんな陰りもある目です。むしろ悲しげな目といえるでしょう。
 布引、月見山、舞子など神戸の風景画が目立ちますが、心がそこに見えるような花の絵も多くあります。画風にひとつの流れが見えてきました。
 清一が絵を学び始めたころの洋画界は、黒田清輝がパリから持ち帰った外光派の穏やかなタッチが主流でした。ですから、彼もそこから出発します。しかし、やがて画家の深い内面が画面ににじみ出てきます。“外光”を“内光”が浸し始めたと言っていいかもしれません。それが大きな魅力です。

●順風の出足 ●過酷な転落 ●自己の発見 ●ラブレター


順風の出足

 清一は1895(明治28)年、茨城県の水戸市に生まれています。旧制の水戸中学校を卒業した後、そのころの画学生が皆そうだったように東京へ出て、赤坂溜池洋画研究所で美術界の“大将”黒田清輝に教えを請い、そこから東京美術学校(現東京芸大)へ進みます。美術学校の研究科を経て、26歳で帝展に初入選を果たしますから、十分に順調なスタートだったといえるでしょう。
 郷里の水戸で白牙会という美術組織が生まれたときも、第1回の展覧会(1924年)にさっそく招待されました。周囲の期待も相当に大きかった気配です。
 その清一が神戸に移ってきたのは1931(昭和6)年。いよいよ洋画家として脂が乗ってこようというときです。当時の神戸は海運の成長を背景に、各地からいろんな人材が集まってくる活気に満ちた都市でしたが、清一の移住の後ろにも水戸から神戸へつながる人のネットワークがあったようです。
 この街で事業に成功していた跡部操(あとべ・みさお)という人が同郷の出身で、清一のコレクターだったのです。前年に画家は跡部家に寄宿して、力作「孔雀」(第11回帝展入選)」を描いていますが、そうこうするうちに新興の神戸の街が好きになって、移住を決意したようです。

●悲しげな目 ●過酷な転落 ●自己の発見 ●ラブレター


過酷な転落

 当然、神戸でも注目される作家となっていきました。戦前の神戸の街では、大塚銀治郎が経営するその名も「画廊」というギャラリーが美術活動の核の一つでしたが、そこでも盛んに展覧会を開いています。41年には神戸文化連盟の常任委員に選ばれました。翌年には兵庫県新美術連盟常任委員長に就任します。ところがこの上昇気流が、“忘却の画家”へ転じるきっかけになったのです。
 兵庫県新美術連盟というのは、戦争へ向かって国民総動員体制が取られるなかで美術家たちも中へ組み込んでいこうという軍事体制下の組織でした。42年に行われた「みなとの祭」の展覧会には「産業戦士美術展」などという不気味な名称がついています。温和な画風から想像する通り、画家は恐らく国民としての義務を誠実に果たしているつもりでいつしかそういう立場へ押し上げられていったのでは、とみられるのですが、運命は過酷でした。
 敗戦によって一転、清一は公職追放のリストに挙げられ、転落が始まります。失意の深さはとても想像できませんが、画家はその後、いっさいの画壇活動から離れます。個人の善意をもてあそぶ歴史という歯車の冷酷を思わせます。
 鈴木はその後、私学の美術教師や子供向けの絵画教室など教育の仕事に生きる道を見いだして、静かな生活に入ります。78年神戸市文化賞を贈られて、その労にひととき光が当てられますが、その翌年、84歳で永眠しました。

●悲しげな目 ●順風の出足 ●自己の発見 ●ラブレター


自己の発見

 芸術家の栄光と転落は悲哀の相をいちだんと濃くします。鈴木もまたそのような画家のひとりだったといえるでしょう。ただそれはあくまで外から見た人生の風景です。いま生涯の作品を通観しますと、まったく別の内なる風景が浮かんできます。
 27歳で描いている「少女」という絵は、典型的な外光派の作品です。明るい光が満ち満ちて、木々を背に少女がつつましく座っています。師である黒田清輝の影響が濃厚です。清輝にずいぶんかわいがられた弟子だったのではないでしょうか。師の枠に、ということは日本の画壇の枠にきっちりと、むしろ優等生のようにはまっています。
 しかしそれから50年余りたって、もはや画壇への発表の意図もなく神戸で描かれた作品「六甲の朝焼け」は、もうナントカ派とかナニナニふうとはいえません。赤く染まった六甲の峰は激しい色遣いですが静かです。手前の樹木は原形をとどめないくらいデフォルメされていて、それでいてみずみずしい命です。動と静、事物性と生命感、形態と抽象、それら相反するもののこの統合は、鈴木だけの世界です。
 そこにあるのは、自らの世界をのびのびと繰り広げる自由さと、自然と自己との隔てのない対話です。画家は世間から離れることで、自然と自己に出会いました。そしてさらに幸福なことに、行くべき道をはっきりと見据えていました。

●悲しげな目 ●順風の出足 ●過酷な転落 ●ラブレター


ラブレター

 子息の耕三さんの証言を聞きましょう。
「父は最後まで言っていました。まだ省略が足りない、まだ足りない、まだ足りない、と」
 まだだ! 清一はどこか空の上の方でまだ描き続けているように思えます。おそらくは、至福の中での創造です。
 さてまじめな感じの耕三さんが一度笑顔になったのは、こんな裏話をされたときです。
「母の遺品の中から父の手紙が見つかったんです。父は収入が乏しかったものですから、母は働き詰めに働いて、私たち子供を育ててくれたのですが、その母が生涯大事にしていたものです。若い父の恋文でした。あの母がそんなものを死ぬまで隠し持っていたというのも私たちには驚きでしたが、無口な父がそんな手紙を書いていたということにもびっくりしました」
 戦時へ入っていくという世相があってのことでしょう、清一はこんなふうに書いています。
「世間からは軟弱だと言われるかもしれないけど、それでもいい、ぼくはあなたを愛しています」
 妻の八千代が死への病に倒れたとき、清一は付きっ切りで妻に絵を教えたということです。どんなに多くのことを妻にしたいと思っても、それがおそらく彼にできる唯一のことでした。やがて妻は命が燃え立つような絵をかいて、そうして去っていきました。ふたりはそのとき、たぶん最も深いところで互いを知ったのではないでしょうか。その妻の水彩も展覧会に並びます。


 毎日新聞の掲載記事  記事本文を読む

 2001.10.10 毎日新聞の記事本文

戦争に翻弄され、歴史に埋もれた
郷土の芸術家に光を

父の人生と作品知って 
中央区で 三男が企画

取材・文:藤田幸司氏(毎日新聞社)


 終戦までは県内の画壇の中心人物として活躍しながら、戦後は戦争協力者として非難を浴び、表立った活動を避けて黙々と創作を続けた洋画家・鈴木清一の回顧展が11日から、神戸市中央区元町通4、こうべまちづくり会館で開かれる。三男の鈴木耕三さん(64)=同市須磨区=が、「父・清一の人生と作品を知ってもらうことで、同じように戦争に翻弄され、歴史の中に埋もれていった多くの郷土の芸術家に光を当てるきっかけにしたい」と、初めて企画した。


清一は1895年、茨城県水戸市生まれ。東京美術学校(現・東京芸術大)西洋画科で学び、26歳で第3回帝展に初入選。神戸市林田区(現・兵庫区)の洋画収集家、跡部操さんの招きで訪れた神戸を気に入り、1931年に移住。小磯良平ら地元の画家と交流を深め、県美術家連盟の常任委員に。その傍ら三菱重工神戸造船所の洋画同好会「木曜会」を指導したり、大阪毎日新聞社(現・毎日新聞社)主催の学生学童工作展覧会の審査員を務めるなど、幅広い活動を続けた。
 戦時体制の強化のため、大政翼賛会の指示で42年1月に県新美術聯盟が発足。清一は常任委員長に指名され、終戦までその役割を担った。
 戦後は大政翼賛会の協力者であったことで非難を受け、画壇活動や展覧会への出品などをやめた。だが創作意欲と神戸の街に対する愛着は変わらず、甲陽学院中等部や兵庫女子短大などで教壇に立ち、自宅の教室で子供に教え、木曜会の講師を続けながら、身近な風景や人物を中心に描き、79年11月に84歳で死去した。
 戦争や戦後の暮らしに対する清一の思いは伝わっていないが、耕三さんは「まじめな性格だったので、忠実に職務にあたったのだろう。その分厳しく批判され、嫌気がさしてほとんどの付き合いを絶ったようだ」と話す。
 今回は、学生時代から晩年までの約60点を展示。戦前の帝展入選作品の「赤い本」「孔雀」や、清一が愛した須磨海岸、舞子の松林、六甲山の風景画、人物画などがある。妻・八千代の水彩画もあわせて展示する。16日まで、入場無料。

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